複数基軸通貨体制の可能性

▼揺れるドル、複数基軸通貨体制の可能性
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2009/20090216/9516/9526/
《筆者が最も印象に残ったのは、マンデル教授が20世紀の最大の失策は変動為替相場制度を導入したことだと発言したことである。マンデル教授は、ユーロのような単一共通通貨が円滑に流通しうる地域、すなわち、最適通貨圏について理論的に考察したことも含めて、国際マクロ経済学および国際通貨の一連の研究が評価され、1999年にノーベル経済学賞を受賞した。その最適通貨圏の理論を応用させて、教授はユーロ誕生の議論にも貢献したと評価された。彼が最適通貨圏の理論で想定していたのは、必ずしも単一共通通貨ではなかった。むしろ固定為替相場制度を採用することができる国々の範囲を規定しようというものであった。それが、ユーロのような単一共通通貨に応用されたのである。……
 最適通貨圏の理論が問題視している状況は、固定為替相場制度の下、あるいは、通貨同盟の下、当該国の間で異なる経済ショックが発生したときに、為替相場の変化によって調整することができないということである。例えば、原油価格が上昇するというオイル・ショックは、原油産出国の経済にはプラスの影響を及ぼす一方、原油輸入国の経済にはマイナスの影響を及ぼす。実際問題として、EU域内の諸国においては、北海油田を抱えるイギリスとその他の国との間では、オイル・ショックは異なる影響を及ぼす。このような状況において、為替相場を変動させることなく、これらの国々の間の経済の調整を行うには、ほかの経済手段が必要である。マンデル教授は、異なる経済ショックによって、ある国で好景気となり、一方、他の国で不況となった場合に、不況の国で失業している労働者が好景気のために労働者不足となっている国に自由に移動することができれば、異なる経済ショックに対して両国で調整することができることを理論的に明らかにした。このように国境を越えて労働者が自由に移動することによって異なる経済ショックに対する調整が可能となることから、労働の移動性の高い国同士で、固定為替相場制度あるいは通貨同盟を採用するとよいということになる。……
 労働の移動性の視点から、EU域内においては最適通貨圏の条件を満たしているので、固定為替相場制度、さらには通貨同盟を採用することが可能としている。一方、現段階において、EU域内ほどに労働の移動性が確保されている国々は全世界でそれほど多くはない。このことは、全世界で固定為替相場制度あるいは通貨同盟を導入することが難しいことを意味する。したがって、世界全体を想定した場合には、為替相場の安定性およびその貿易・直接投資への効果の視点から固定為替相場制度が望ましい為替相場制度だとしても、最適通貨圏の視点から労働の移動性が十分ではないので為替相場の変動による調整が必要となる。
 このように、現段階では、世界全体で、一つの通貨、例えば、ドルに固定するという固定為替相場制度を採用することは困難であり、世界全体で単一共通通貨を導入することはさらに難しい。むしろ労働の移動性に従って世界の各国が複数の通貨に固定するという固定為替相場制度が採用されることがより現実的である。実際に、ドルに為替相場を固定する国々、さらにはドルを一方的に自国通貨として流通させている国々が存在する一方、ユーロを導入して、ユーロ圏を形成する国々(EU16カ国)およびユーロに為替相場を固定する国々が存在する。……
 ブレトンウッズ体制が崩壊し、総フロート制の下で、ユーロが導入された99年以降、ドルのほか、ユーロを中心として、ユーロ圏を形成する国々およびユーロに為替相場を固定する国々が、EUの東方拡大に伴い、EU諸国の中で増加してきた。さらには、拡大EUの周辺国においてもユーロに為替相場を固定する国々が増加してきた。このように、ドルのほかユーロを含む、複数の基軸通貨が存在する通貨体制を複数基軸通貨体制と呼ぶことができる。
 しかしながら、複数基軸通貨体制といっても、基軸通貨ドルと基軸通貨ユーロが同等の状態にあるとはいえない。ドルがほとんど世界中で国際的決済通貨として流通しているのに対して、ユーロはEUを中心としたヨーロッパという地域における基軸通貨にすぎない。その意味で、現状では、複数の基軸通貨が存在するものの、ドルが極めて大きな地位を占める基軸通貨となっていることから、一人のガリバーと多数の小人を意味する、ガリバー型基軸通貨体制といったほうがいいだろう。
 ドル基軸通貨体制においては、唯一の基軸通貨だけしか存在しないことから、世界の経常取引および資本取引において通貨の交換の効率性は高い。他方、複数基軸通貨体制においては、基軸通貨が複数存在することから、基軸通貨間で取引費用を要するようになるので、通貨の交換の効率性は低くなる。交換の効率性の視点からは、ドル基軸通貨体制のほうが望ましいといえる。
 しかしながら、通貨のガバナンスという視点からは、73年のブレトンウッズ体制の崩壊、85年のプラザ合意、90年代後半から現在までのアメリカの経常収支赤字拡大とアメリカ発の金融危機において経験してきたように、ドル基軸通貨体制やガリバー型基軸通貨体制は、通貨の独占状態あるいはガリバー型寡占状態のため、アメリカの対外通貨政策(ドルの対外価値の安定)に対してガバナンスが働かないという問題がある。それに対して、複数基軸通貨体制の下では、複数の基軸通貨の通貨競争によって対外通貨政策(通貨の対外価値の安定)に規律が働くことが期待される。……現在のドル基軸通貨体制が維持されるのであれば、ドルの流動性欠如に備えて、米国連邦準備制度理事会が世界各国の中央銀行に対して「最後の貸し手」としての役割を果たす必要がある。
 もしアメリカ政府にこのような意識がないのであれば、ドル基軸通貨体制から脱却して、複数基軸通貨体制へのシフトに努める必要がある。しかし、世界経済の経常取引および資本取引において基軸通貨ドルが広く利用されていることから、ネットワーク外部性が作用して、そのままドルが利用され続けるという「慣性」が働いている。
 そのため、世界経済において基軸通貨ドルからの脱却には時間を要するであろう。EUを中心としたヨーロッパ地域におけるユーロのように、地域通貨を地域における基軸通貨とすることは可能である。その意味で、アジアにおいても、域内の決済通貨としてドルに依存している状況から、地域通貨によるアジア域内の基軸通貨を創造する必要がある。その際に、アジア通貨単位に円や人民元を固定するというアジア域内の通貨体制の可能性を探ることが望まれる。》